西郷隆盛(さいがうたかもり) 鹿児島の産にして吉之助南州とよひ智勇たけく軍方/にひいで一新のはじめ禁震をやすんじ奉り其功莫大江湖の/人これをしるよつて陸軍大将にのぼる故あつて故郷にかへるときに/明治十年二月かご島ぼうとの巨魁となり熊本に開戦なす 桐野利秋(きりのとしあき) 前名中村半次郎といひ人となり桐野利秋となのり/思りよふかくことに武勇はもちろん砲じゆつは天下に及/ぶ者なしをしいかな暴徒をたすけ無名のいくさを起し/けるはいはゆる智者の一失ならんか 篠原国幹(しのはらくにもと) かご島の産たり其はじめ皇国に義名をかゞやかし陸軍少将たり/しが故郷かご島にかへりてけん下の暴とらが首領となり肥後田 /はら坂に蜂起し官兵をうちくだかんと種々ぼうけいをめぐらし/戦ひすみしか終に官軍のためにうち死せしといふ 村田新(むらたしん)八 かご島の副将とよばれすこぶる鎗刀の達人のきこへあり/此度強賊の三隊を引率し熊本植木の町に乱せんして/右手に砲玉をうけ骨くだくるといへどもくつせずます〱 /実せんにおよび敵をおふことしば〱なりといふ 西郷(さいがう)小平 其昔島津公のきん臣にて同苗隆盛の舎弟也力あくまでつよ/く全身に千斤を上て重しとせず十三才のころ同国なだれ川にて/川太郎を手どりになし其がうけつ四方にるふして末たのもしく思ひしに/豈斗らん暴徒に加はり花岡山の露ときへはてしは哀れなり 前原一格(まへばらいっかく) 長州萩の住人前原一格は去る明治九年小春の一戦に兄/一誠の大望むなしくなりしを深くいきどほりじせつを待/うつぶんを報ぜんとひそみをりしが此たびかこ島の一ツ揆と/きくよりいち早くも加はりいつも戦頭にすゝむといふ 河野(かうの)四郎 かご島の強将なりひそかにかんじやを以て花岡山のふ/もとなる官兵が陣中を伺ふに此ほどより長陣の余りうみ/つかれしと聞よりはかりて五疋の牛に石炭油をそゝぎかけ火をうつ/し追放せば荒まはり是が為に官兵大になやみしとぞ 池上(いけがみ)四郎 四郎は生質武じゅつをはげみ少年よりやゝじゅくして/神かげりうの印可をきはめ刀討の早わざ天下になら/ぶ者なし且国風種がしまの砲じゆつに妙手なし/暴徒仰いで副将となすくま本けん下に力戦しば〱たり 中根米(なかねよね)七 若松はんの士ぞくにて明治九年の小春のはじめ同はん士族/永岡久茂とともに府下の思あんばしにて巡査のじんもん/をこばみ終にばつ刀およびしが功ならずしてかご島に/はしりて此度のぼうとに加はりしば 〱血せんなせしといふ 村田(むらた)三助 かご島の豪けつ也生とく短慮にしてがうゆうなれば/衆にぬきんで肥後の植木町にさきがけなし悪せんに及/びしか官軍はるかに賊将とみるより玉ごましねらひ打/にせしかば其玉胸もとより背へ打ぬかれて死したりとぞ 淵邊(ふちべ)高照(たかてる) かご島の士ぞくたり馬じゆつの名誉のきこへありつねに/馬上にまたがりて道行するに一時間にして十余里を/はしるといふ其早きこと凡人ならずしかるにこのたび/ぼうとの先鋒として肥後の高せ川にて大に戦ひしこと也 平山新(ひらやましん)助 薩州の住人平山新助は諸将のうちにも大たんふてきの/がうけつ也ある夜植木の官軍が陣中へ夜うちを仕かけ/官兵の周章せしを悦び数千の小銃を軍どりなしみかたの軍 をつよくなさんと計りしといふ 児玉(こだま)八之進 尾(び)となつて全からんより玉となつて砕けよとは古人の格言也/と八之進はさいしよより戦死とかくごをきはめ山鹿口にしんがり /して官兵をおふこと猛虎のあれたるごとし然れとも官兵の大/軍にあたりがたく終にうち死して山鹿の土となりしとぞ 同玉江(たまえ) かご島に夫のるす守りたり八之進の妻玉江は美/女のきこへあり殊更貞心ふかく夫出陣のゝちはふじに夫/の勝利をいのり居しに豈はからんや夫うち死ど聞より/書おきを認めおや里へおくりその身はじがいせしといふ 永山(ながやま)矢(や)一郎 かご島の壮勇にして馬じゅつ鎗刀のたつじん也此たびの/ぼうと旗頭と仰がれ西郷の命をうけ熊本城へおし/よせ戦ひさい中なること□忽ぜんと地らい火はつしみかたらう/ばいせしを立なをし又ゝ勝利なるを悦び欣ぜんとして引上たり 肥後(ひご)助(すけ)右エ門 助右エ門は旧主島津公の側用人をつとめ高百五十石を/たまはり島津家むにの忠臣也明治のはじめ彰ぎ隊とたゝ/かひ大に功あり賞典ろくあまた給はり不足なき身なりし/に此度の一きにくみして所々に戦功をあらはせしといふ 中島武彦(なかじまたけひこ) 武彦は古主久光公につかへしとき郡奉行たりしがつねに/百姓をめぐみ検見のせつも民のきやうおうをうけず農人/ら其徳になづむこと周の西伯にひとし異なるかな紂王と変/じ西郷桐野と逆徒をくはだて肥後高はしにて悪戦なせしとぞ 篠原国女(しのはらくにじょ) 国女は篠原の娘にて性質親孝心にして又賢女/なり今年十六才父国幹うち死ときくより敵一人なり/とも打とり父の鬼□をなぐさめんこと西郷の本陣に/いたりせは兵とともに花岡山に出陣すといふ 有馬(ありま)藤太(とうた) 元麻布我善坊禅宗の納所にて西道といふ改名して有馬/藤太となのり元治元年中薩人とまじはり暴をほしいまゝにして/ふぎの財宝をむさぼり其後薩人かれが身上のあしきをつま/はじきせしに此度の一揆ときくより再び交はらんと同士を語らいしと 山内半(やまのうちはん)左エ門 半左エ門は其昔島津公の勤臣にして生質おんかうの君/子也力つよく安政の大地しんのをり七曲りのやしきに住せしが震さ/いの為にうつばりを背おひし親子の死せんとするを見るに/しのびず忽ち梁の小口を引おとし両人ともたすけしといふ 高城(たかぎ)十二 十二は明治のはじめ奥羽ついとうのせつ会津城へせんぢんなし/奥羽平定のゝちかご島にかへり引こもり居しが此度西郷が/奇計をうけて青竹のうちへだん薬をつめおき戦ひなんぎに/及んではこれに火をさし敵みかたともうち死をなせしといふ 山口(やまぐち)小(こ)右エ門 小右エ門は生質賢にしてつねに五常のみちを□□/且せじにうとからずして詩歌をこのみ茶道は利久の流を/くみ実に当世のゆうび也しかるに此度ぼうとの旗がしらと/ なり花岡山に出兵し東軍をおふことしば 〱なりしといふ 逸見(へんみ)十郎太(じうらうた) 十郎太は慶応年中関東にありしとき深川やな川町に妾宅を/かまへ愛せしが妾ぞうてうして逸見が目をむすみ密夫を忍ばせ/酒狂のうへ雑言をいひかけしを逸見とらへず一刀に首打おと/し妾の母へ金五十両そへ持参し子細をはなし引わたせしとぞ 浅井(あさい)直之進(なをのしん) 直之進は生得力つよくして当に大砲をもつて腕だめしに/して放すといふ賊こと西郷桐野にはじめより加はりさくら/島にてたん薬せいぞうの隊長となり熊本へ出兵なし吉次/ごへの茂林のうちより二十目銃を発するニ百はつ百中といふ 永山九成(ながやまきうせい) 九成は鎗刀の印可をきはめ戦場にのぞめども炮銃を手に/ふれず又明治のはじめ越後長岡のたゝかひに大功ありしかる/に鹿児しまのぼうとに加はり西郷が命をうけて長持の/うちにひそみ居り官軍へふいに切り入りしといふ 野村(のむら)十郎太(じうらうた) 十郎太は生得がうけつにて水れんに妙をえ且天文海路の深/浅をはかり通船すること平地のごとししかるに西郷が竒謀/をうけ国をつよくせんと本年一月廿一日の夜小賊をひきい同/けん下の弾薬ぐらにおし入小銃物品をうばひ去りしといふ 伊藤直二(いとうなをじ) 直二は島津久光公の家臣にして高なはのやしきに勤番のせつ/あるよ私用にて八ツ山下をとふりしとき一人の追剥来て直二をはがん/とすればあざわらひ汝虎のひげをひねりあたら命をすつる事/なかれと我手なみをしめし非道をいましめ一とひらの金を与へしとぞ 別府(べっふ)新助(しんすけ) 新助は大坪流のたつ人にして古玉久光公の馬役にて家中の教/師たり明治十年早春より西郷藤原にくみして肥後吉/次こへに出兵す官軍ふもとの方に充まんしてその軍威けに/大なるを新助少しもおそれずぜつてうより馬乗にて切入しといふ
資料集掲載番号
170
受入番号
2013-07-07
西南戦争錦絵判型
大判錦絵
彫師
彫師未詳
版元名
清水嘉兵衛
版元住所
神田鍋町二番地
届出日
明治十年七月届出
本紙1横
25.20
本紙1竪
36.00
iiif_direction
right-to-left
UUID
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