By nakamura, 5 7月, 2024

西郷氏は隆盛旧称(たかもりきうしゃう)吉之助南洲(なんしう)と号す 天資超然不群(てんしちゃうぜんふぐん)にして島津(しまづ)家に仕へ其 始めは側納戸(そばなんど)をつとめしが其頃松代(まつしろ)藩(はん)佐久(さく) 間象山幕臣勝海舟(ましゃうざんばくしんかつかいしう)君等と海外(かいくゎい)の学(がく)を 研究(けんきう)し嘉永(かえい)年間に至て其名初めて顕(あらは)る 嘉永癸丑(かえいきちう)の歳(とし)亜艦浦賀(あせんうらか)に渡来(とらい)せしより幕(ばく)府の閣老(かくらう)/不得止(やむをえず)天下(てんか)の形勢(けいせい)を洞察(どうさつ)し異船(いせん)を打払(うちはら)はさるより諸藩(しょはん)/其幕政(ばくせい)の因循(いんじゅん)を密(ひそか)に慷概(かうがい)し頗(すこぶ)る紛櫌(ふんやう)の萌(きざし)あり此/時吉之助お君命(くんめい)に因(よつ)て京師(けいし)に赴(おもむ)き近衛公(このえこう)の愛顧(あいこ)を蒙(かうむ)る 安政(あんせい)五年の秋(あき)幕府(ばくふ)水戸(みと)越前(えちぜん)其他(そのた)三藩(はん)に謹(きん)/ 慎(しん)を命(めい)ず時(とき)に西郷氏も京師(けいし)に在(あ)りて屢々成(しば〱じゃう)/就院(じゅいん)の月照等(げっしゃうら)と国家(こくか)の事(こと)を談(だん)じ終(つひ)に月照(げっしゃう)と/幕府(ばくふ)の逮捕(たいほ)をまぬがれ薩海(さつかい)に身(み)を沈(しづ)めて後(のち)蘇生(そせい)す 入水(じゅすい)の後旧藩(きうはん)の救助(きうぢょ)を/得(え)て竟(つひ)に蘇生(そせい)し名(な)を菊池(きくち)/源吾(げんご)と改(あらた)む然(しか)れ共(ども)幕府(ばくふ)の嫌疑(けんぎ)を/ 憚(はゞ)かり藩吏(はんり)同(どう)氏を大島に流(なが)す島に在(あ)ること数年(すねん)にして/自(みつか)ら大島三右衛門と称(しょう)す志(こゝろざ)しいよ〱堅(かた)く学識(がくしき)すこぶる進(すゝ)む 文久(ぶんきう)三年 朝廷(てうてい)幕府(ばくふ)の間頗(あひだすこぶ)る物議(ぶつぎ)を醸(かも)し三條/公以下七卿(きゃう)長州に下らるの途中(とちう)三田尻(じり)より原道太と/いふ士(し)を大島(しま)に遣(つかは)し西郷氏(さいがうし)を長州に/[ ]る終(つひ)に原氏渡島(はらしととう)を果(はた)さす其後藩(はん)/主赦([  ])して再(ふたゝ)び藩政(はんせい)に参与(さんよ)せしむ 慶應([ ]おう)元年幕府(ばくふ)征(せい) 長の兵を挙(あ)ぐるや 先(さき)に長藩([ ]はん)京師に乱(らん) を為(な)す時(とき)に薩(さつ)藩の 将(しやう)となり長軍(ちゃうぐん)を撃(うつ)こと [ ]同氏(とうじ)の指揮(しぎ)する処(ところ)に [ ]その後薩(のちさつ)長の [ ]藩(はん)和議(わぎ)遂(つひ)に成(な) る等専(とうもっは)ら西郷氏 の尽力(じんりょく)という同三年 十二月前(ぜん)将軍慶喜公(けいきこう) 大政奉還(たいせいほうくゎん)の際(さい) 朝廷(てうてい)氏を 召(しゃう)て大会議(だいくわいぎ)に参与(さんよ)せし む而(しかし)て東征(とうせい)の参謀(さんぼう)たり 慶應(けいおう)の末徳川 慶喜公謹慎恭順(きんしんきゃうじゅん)して 上野に屏居(へいき)す西郷氏は官軍東征(とうせい) の参謀(さんばう)にて既に先鉾(せんぱう)品川に入る 時に勝安芳君(かつやすよしくん)出て恭順(きゃうじゅん)の情状(じゃう〱)を 陳(の)ぶ既に江戸城を引渡しの 事(こと)を談(たん)ず是氏(ときし)が尽力(じんりょく)という 明治維新奥羽征討(めいじいし[ ]うせいと[ ])の参謀(さん[ ]う)とな[ ]氏(し)が計策(けいさく)空(むな)し/からず戦(たゝか)ふごとに勝利(しょうり)を得(え)強敵会藩竟([ ]うてきくゎいはんつひ)に降伏(くうふく)し/尋(つゞい)て奥羽全(おううまった)く平定す 朝議(てうぎ)同氏が偉功(いこう)を賞(しょう)/せられ賞典禄(しょうてんろく)二千石を賜(たま)ひ後(のち)参議(さんぎ)に任(にん)ず 明治(めいぢ)四年正三位(い) に叙(ぢょ)せられ同六年 [ ]月陸軍大将(りくぐんたいしゃう)に任(にん)じ参(さん) 議を兼(かね)しむ氏(し)はつねに 倹約(けんやく)質素([ ]そ)をもつぱらとし て旧藩(きうはん)の窮士(きうし)を撫育(ぶいく) し恩賜(おんし)の賞典禄(しょうてんろく)を以(もっ) て学資(がくし)その他(た)に宛(あ)て仮(かり) にも奢侈(しゃし)のおこなひなく 大に人望(じんばう)を同氏(どうし)に帰(き)す ること世人(せじん)の知(し)る所(ところ)なり 同五月征韓(せかん)    の論合(ろんあは)ずし      てその職を辞(じ) し本国(ほんごく)に帰(か)へらる 征韓(せいかん)の論合(ろんあは)ず重職(ぢゅうしょく)を辞(じ)し本国に/在(あ)りと雖(いへど)も陸軍(りくぐん)大将の官は旧(もと)の如しと/朝廷数々(てうていしば〱)召(めさ)ると雖もただ病(やま)ひと称(しょう)して応(おう)/ぜずたとへ外人對面(たいめん)を乞(こふ)とも更(さら)に出て面(めん)せず麁(そ)/服(ふく)を着(ちゃく)して常(つね)に荒蕪(くゎうぶ)を開墾(かいこん)するを以て身の楽(たのし)みとす 郷邑(きゃうゆう)に私学校(しがくかう)を設立(せつりう)し書生を教育(けういく)す同/氏時として校に臨(のぞ)むといへども家人も先生の/出る所を知る能(あた)はずと常(つね)に洋犬(やうけん)を愛(あい)して自ら山/野に猟(かり)し終日(ひねもす)得物(えもの)を調理(てうり)して麁飯(そはん)を食し夜(よ)/は読書(どくしょ)して他事(たじ)を不顧(かえりみず)と云 明治十年二 月私学校党(しがくかうとう)磯(いそ) の浜弾薬所(はまだんやくしょ)に乱入(らんにう)し之を 掠奪(れうだつ)し続(つゞひ)て警部(けいぶ)中原氏 以下西郷を暗殺(あんさつ)せんとするは 在廷(ざいてい)貴顕(きけん)の内命(めい)なりと偽名(ぎめい)を もふけ暴徒(ばうと)同氏等を捕縛(ほばく)し苛酷(こく) の拷問(がうもん)をなす終(つひ)に西郷を大将とし 肥後(ひご)に出陣(しゅつぢん)す 朝廷隆盛(てうていたかもり)が叛逆判然(ほんぎゃくはんぜん)たれば終(つひ)に官位(くゎんい)を褫奪(ちだつ)せら/れ賊徒(ぞくと)征討(せいとう)を仰(おほ)せ出(いだ)さる賊軍(ぞくくん)は破竹(はちく)の勢(いきほ)ひに乗(じょう)して肥後(ひご)熊(くま)/本に出軍し同鎮台(ちんだい)に逼(せま)る陸軍少将(りくぐんせう)谷千城君賊(たにかんじゃうくんぞく)が動静(どうせい)を察(さっ)/し本城に立籠(たてこも)り固(かた)く守(まも)る官軍海陸より押寄(おしよせ)植木(うえき)田原坂に激戦(げきせん)す 賊軍(ぞくぐん)数戦(すせん)利(り)あらず同 十年九月鹿児島(かごしま)再(さひ) 襲(しう)の挙(きょ)あれども弾薬(だんやく) 尽(つき)て賊将(ぞくしゃうしろ)城(ぞくしゃうしろ)山の穴裡(けつり) に篭(こも)る同月廿四日官 軍大挙終(きょつひ)に数賊(すぞく)を 討取(うちと)る隆盛(たかもり)自殺(じさつ)し 首級(しゅきう)を隠(かく)す然(しか)れ 共(ども)後首(のちしゅ)級を得(え)らる 其死(そのし)がいを浄光(じゃうくゎう) 明寺(みゃうじ)に葬(ほうむ)る

資料集掲載番号
280
受入番号
1990-032-118
西南戦争錦絵判型
大判錦絵三枚続
作者
大蘇芳年(月岡芳年)
彫師
彫師未詳
賛署名
筆者未詳
版元名
大倉孫兵衛
版元住所
日本橋通一丁目十九番地
届出日
明治十年十二月十七日届出
左中右 上中下1
本紙1横
24.20
左中右 上中下2
本紙2竪
36.10
本紙2横
24.20
左中右 上中下3
本紙3横
24.10
本紙1竪
36.10
本紙3竪
36.10
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