By nakamura, 5 7月, 2024 鹿児嶋紀聞 鹿児島県士族(かごしまけんしぞく)不平(ふへい)を 抱(いだ)ひて這回暴挙(このたびぼうきょ)に及(およ)びし 根源(こんげん)は如何(いか)なる筋(すじ)にや更(さら)に 了解(わか)らねど一月丗一日桜嶋(さくらしま) 向(むかふ)の弾薬製造所(だんやくせいそうしょ)より運(はこ)び 出(いだ)さんとせし弾薬(たんやく)を悉(こと)く取(とり) 戻(もど)せり後何(のちなに)か不平(ふへい)を鳴(なら)し 県庁(けんちゃう)へ迫(せま)りしといふ 鹿児嶋紀聞 の続きを見る
By nakamura, 5 7月, 2024 鹿児島暴徒図 河村海軍大輔(かはむらかいぐんのたゆう)林(はやし)内務少 輔(ゆう)の二君(くん)暴徒(ばうと)説諭(せつゆ)の為(た)め 鹿児(かご)鳥(島カ)湾(わん)へ到(い)たり既(すで)に 上陸(じゃうりく)せんとする際(さい)徼徒(げきと) 四五名小舟(せうしう)にて艚付(こぎつ)け 乗移(のりうつ)らんとする故是(ゆえこれ)を 断(き)りしに又数艘(す さう)の小舟(せう しう)を 浮(うか)べ来(きた)りて稍(やゝ)発炮(はっぱう)にも 及(およ)ばんとする勢(いきほひ)に付抜(つき ばつ) 錨(びやう)するに暇(いとま)なく錨綱(びゃうかう)を 絶(たち)て同県下(どうけんか)磯江(いそえ)に趣(おもむ)かれ 大山県令(おおやまけんれい)に面談(めんだん)し同十三日 神戸(かんべ)へ帰帆(きはん)ありしと云(い)ふ 鹿児島暴徒図 の続きを見る
By nakamura, 5 7月, 2024 【鎮撫】鹿児嶋新聞 一陽来復(いちよふらいふく)して花(はな)に 沸騰(ふっとう)の色(いろ)を見せん桜(さく)ら 島(しま)に暴挙(ほふよ)なし弾薬(たんやく)を 奪(うぼ)う逆徒(そくと)の士(し)鹿児島県(かこしまけん) 下(か)の国境固(くにさかひかた)めをなして 士族等(しそくら)は学校生徒(かくこふせいと)に 打交(うちまち)り不意(ふい)に斬入県(きりいるけん) 庁(てう)は防戦(ほふせん)なさんと人数(にんづ)を 操出(くりだ)す暴徒(ほうと)は県庁(けんてう)を 乗取(のりとっ)て魁首(くわいしゅ)は桐野某(きりのなにがし)と 実(げ)にも不平(ふへい)の士族(しぞく)なり 頑固(かんこ)といわん逆徒(きゃくと)と いわんや 明治十年第二月 記者 玄涯(金へんに常)述 【鎮撫】鹿児嶋新聞 の続きを見る
By nakamura, 5 7月, 2024 廟堂征韓議論図 偖(さて)も明治四年のころにやあ りけん外務卿(ぐゎいむきゃう)副嶋種臣公を 特命全権(とくめいぜんけん)公使(こうし)に任(にん)じ朝鮮(てうせん)へ 遣(つか)はされしに該国(かのくに)の官人(やくにん)不(ふ) 迂(らち)乃至(いた)り多(おゝ)かりしを公使帰(き) 朝(てう)ありて該事情(そのことがら)をつぶさに 奏上(もうしあげ)しければ廟堂(こうぎしょ)の諸大臣(しょだいじん) 其(その)始末(しだい)を聞(きゝ)朝鮮お征伐(せいばつ)せん との論議発(ろんぎはっ)せしを智勇(ちいう)なる かな右大臣岩倉具視公その 可不可(よしあし)を明弁(あきらか)せられしは十 月のことゝかや 廟堂征韓議論図 の続きを見る
By nakamura, 5 7月, 2024 西海揚波起原 西海(さいかい)に海嘯(つなみ)の激浪(けきらう)を起(おこ)して 国民(こくみん)流離(りうり)の戦端(せんたん)を開(ひら)きしは 過(すぎ)し癸酉(きいう)の歳(とし)に西郷(さいがう)桐野(きりの) を創(はじ)めとして専征韓(もっぱらせいかん)を主張(しゅちゃう) せり其論(そのろん)行(おこな)はれざりしより帰省(きせい) して遂(つひ)に此挙(このきょ)に及(およ)ぶというは尤(もっとも) 信用(しんよう)じがたけれど海嘯(つなみ)の起(おこ)るも必(かならす) 風候(ふうこう)の正(たゞ)しからざるに因(よっ)てなり国民(こくみん) をして流離(りうり)せしむるの戦端(せんたん)も又(また) 起(はじ)原の源因(げんいん)ならざらんや 西海揚波起原 の続きを見る
By nakamura, 5 7月, 2024 【西海騒揺起原】征韓論之図 去(さんぬ)る明治(めいぢ)四年(ねん)の事(こと)なり しが外務卿副島君(ぐはいむけうそへじまくん)を以(もっ) て全権(せんけん)公使(こうし)と為(な)し朝鮮(てうせん) 国(こく)へ遣(つか)はしけるに彼地(かのち)の官(くはん) 人(じん)我(わが)日本(くに)を軽蔑(かろしめ)使節(しせつ)へ対(たい) し粗暴(そぼう)有(あり)しゆへ副島君(そへじまくん)よ り帰朝(きてう)の上(うへ)速(すみや)かに上申(しゃうしん)せら れしより百官有志各各(くはんゆうしおの) 彼奴(かれ)の不礼(ぶれい)を憤(ふん)怒断然(だんぜん) 師(いくさ)を士(し)を差向暴慢(さしむきほうまん)の鼻(はな) を摧(くじ)いて日籏(にっき)の赫々(かく)たる 威勢(いせい)を海外(かいくはひ)に輝(かゝやか)さん肩(けん) 臂(ぴ)を張(はり)て征韓(せいかん)の激論発(げきろんをこ) りしも岩倉君(いはくらくん)の弁解(べんかい)より 不平(ふへい)の徒(と)起(おこ)り西南(せいなん)の起本(きほん)とは なれり 竹林舎乕重記 【西海騒揺起原】征韓論之図 の続きを見る
By nakamura, 5 7月, 2024 征韓論之図 過(すぐ)る明治四辛未年 吾国(くに)より副(そへ)島公(こう)を全権(ぜんけん) 公使(こうし)として朝鮮(てうせん)へ遣(つか)は されしを渠(かれ)吾国(わがくに)を軽蔑(けいべつ)の 事(こと)ども多(おほ)かりし故(ゆへ)公使(こうし)帰(き) 朝(てう)あつて此由(よし)を上申(じやうしん)す諸(しよ) 卿(きやう)の評議(ひやうぎ)区々(まち〱)なるを西郷(さいこう) 桐野(きりの)征韓(せいかん)の論(ろん)に募(つの)りしが 其意(そのい)の通(つう)じざりしを奮然(ふん ぜん) として帰県(き けん)せしとかや 征韓論之図 の続きを見る
By nakamura, 5 7月, 2024 征韓論之図 王政復古(わうせいふくこ)の時(とき)に際(さい)し隣邦(りんはう)たる を以(もっ)て明治四年朝鮮国(てうせんこく)へ使節(しせつ) を発遣(はっけん)せられし処(ところ)該国(がいこく)の官(くわん) 吏礼(りれい)を失(しっ)するにより庿堂(べうだう)の諸(しよ) 大臣(だいじん)朝鮮(てうせん)の無礼(ぶれい)を糺(たゞ)すの師(いくさ) を出(いだ)さんと征幹(せいかん)(韓カ)論起(ろんおこり)しを 三條岩倉両大臣(さんでういはくらりやうたいじん)を始(はじ)め其非(そのひ) なるを弁明(べんめい)せしより征幹(せいかん)(韓カ)党(たう) は不平(ふへい)をいだき各々(おの)辞職(じしょく)なしたり しが后(のち)に暴挙(ばうきょ)の企(くはだて)ありしと 征韓論之図 の続きを見る
By nakamura, 5 7月, 2024 征韓論之図 頃は明治四年とかや 外務卿副嶋(そえじま)公を特(とく) 命全権(めいぜんけん)公使として 朝鮮(てうせん)え遣はされしに かの国の官(くゎん)人ども不礼 の事ども多かりけれ ば副島公帰朝(きてう)の上此 よし上申有けるにぞ 廟堂(びょうだう)の諸大臣朝鮮 人の不礼を糺(たゞ)す師(いくさ)の 士を出さんと征韓論(せいかんろん) 起りしを岩倉右大臣 その否(ひ)なるを弁明せし とぞ 柳々子仙果 征韓論之図 の続きを見る