By nakamura, 5 7月, 2024

偖(さて)も官軍(くわんぐん)は連戦打勝(れんせんうちかっ)て諸(しょ)口へ 進撃(しんげき)し当(あた)るを幸(さいは)ひ勇戦(ゆうせん)するに 賊(ぞく)も死憤(しふん)の勇(いさ)みをなし此処彼処(こゝかしこ)に 交戦(かうせん)せし中(なか)にも高瀬(たかせ)口より河(かは) 内通(ちとほ)りへ進軍(しんぐん)の際(きは)少佐(せうさ)連隊籏(れんたいき) を奪(うば)る時(とき)に官軍(くわんぐん)の中より野 津(づ)大佐(さ)これを見(み)て馬(うま)に鞭(むち)うち 真地暗(まっしくら)に敵(てき)中へ馳入遮(はせいりさへぎ)るものを 馬足(ばそく)にかけ数人(すにん)の敵(てき)を切(きっ)てすて難(なん) なく籏(はた)を取返(とりかへ)し徐々(しづ〱)と引(ひき)上しは最(いと) 目覚(ざま)しき 景況(ありさま)なり

By nakamura, 5 7月, 2024

二月廿八日の戦争(せんそう)は賊(そく)は高瀬(せ)へ来り し故官軍進撃(しんけき)したる所尚(なほ)又賊(ぞく)は稲(いな) 田村の渡場(わたしば)へ来り番兵(ばんへい)へ砲発(ほうはつ)し官 軍は大砲(たいほう)を卅発(はつ)打出し賊(ぞく)三十人余(あまり) 斃(たを)れけると去廿七日には官軍は川土手(どて)に より戦ひ賊は横(よこ)を打たれて官軍方勝(かち)也

By nakamura, 5 7月, 2024

明治十年三月四日野津陸軍 少将は一手の兵を引卒し髙 瀬より二た手に分れ河内ど ほりを進撃(しんげき)の折賊軍(ぞくぐん)を うち破り高橋まで攻つめ しが少佐某(それ)深入して連隊(れんたい) 籏(き)を奪(うば)われける野津君(くん) 敵中に馬を乗こみ暴徒 六人切て捨はたを難(なん)なく取 返し徐(しづ)〱陣へ戻りし は最目覚(いとめざま)しき事と名誉(めいよ) を野史(やし)に残しけり    篠田仙果記

By nakamura, 5 7月, 2024

経邦(けいほを)の智蓋世(ちかいせい)の勇(ゆう)も負(たの)むに足(た)らず無(む) 名(めい)の師不正(いくさふせい)の暴挙(ぼをきょ)安(いつく)んぞ功(かふ)を成(な) すを得(え)ん維新(いしん)の偉功(いかふ)に依(より)て天下の 人望(ぼう)己(をの)れに帰(き)せりとする賊(ぞく)長西郷 戊辰(ぼしん)の役(えき)の戦功(せんかふ)より武勇(ぶゆう)を以て 自(みづか)ら任(にん)ずる篠原桐野等(ら)兇猛血(きょをもをけっ) 気(き)の頑党(ぐゎんとを)を募(つの)り一挙(きょ)熊本城を 陥(をとし)いれ九州を席捲(せきけん)する旬(とか)日を過(す)ぎ ずと図(はか)りしも張巡楠氏(ちゃうじゅんなんし)が肺肝(はいかん)を得(え) たりし若(ごと)き谷少将か防禦(ぼうぎょ)す術(てだて)に徒(いたつ)らに 数日(すじつ)を囲饒(いんやう)するに止(とゝま)り進(すゝん)で豊筑(ぶちく)を 畧奪(りゃぐだつ)せんとするも官軍出兵(しゅっべい)の迅速(じんそく) なるか為に十里の外に進むを得(え)ず就中(なかんつく) 二月廿七日羽間(はざま)川の戦(たゝかい)ひ((ママ))は賊軍兵を 二手分ち正兵(せいへい)は川に向て進撃(しんげき)し奇(き) 兵(へい)の一隊(ひとて)河(かは)上より官軍の横(よこ)を襲(をそ)ひ 屡(しば)々死奮(しふん)の激戦(げきせん)

By nakamura, 5 7月, 2024

官軍(くゎんくん)は安見橋(やすみばし)のほう るいを抜(ぬ)き川尻(かはしり)を越(こえ)ん とせし時賊軍隊長(ときぞくぐんたいちゃう) 別府(べっぷ)新助(しんすけ)の隊(たい)不斗(ふと) 裏道(かんどう)より出(いで)て撃戦(げきせん) なす角力取(すまふとり)梅ヶ谷(むめがたに) 藤太郎(とうたらう)は官軍加(くゎんくんくは)はり 賊軍追(ぞくぐんをおひ)しりそげて 官軍勝利(くゎんぐんせうり)なり

By nakamura, 5 7月, 2024

却説(さて)暴徒魁首(ぼうとふのきょしゅ)前陸軍大将正三位西郷 隆盛は川尻に本営を講(かま)へ精(せい)兵八百人守衛 なさしめ謀畧(ぼうりゃく)を胸中(きゃうちう)にひめ各所の戦(たゝか)ひ 告(つげ)ると雖(いへ)ども欣然(きんぜん)として軍事(ぐんじ)に関(かん)け いせざる如く連俳(れんば)は碁(ご)を囲(かこ)て酒宴(しゅえん)を もよをし悠々(ゆう〱)としたり此に昨秋佐賀 の暴挙(ぼうきゃう)の将前原一誠の末弟(ばってい)前原 一格といへる壮士(わかもの)ひそかに逃(のが)れ彼(か)の隆盛 に随(したが)ひ虎賁(かうふん)の勢(いきお)ひをあらはし白き布 に我(わが)姓名をしるし背(せ)より脇(わき)へ結(むすび)下け高 橋口の戦ひ先鉾(せぼう)を受堅横(うけじうわう)に奔走(ほんさう) し勇猛をあらはせしを西郷は寛(くわん) 示(じ)と笑(え)みをふくみ盃を廻らせしとぞ        内田正鳳記

By nakamura, 5 7月, 2024

先頂(ころ)逸見淵辺(へんみふちべ)の両人が鹿児島(かごしま)え 帰(かへ)り老人小児(らうじんせうに)を脅従(けうじう)(おどし)して千五百 人の兵(へい)を募(つの)り西郷(さいがう)の本陣(ほんぢん)へ到着(とうちゃく) しけるに隆盛(たかもり)は不興気(ふけうげ)にて右(みき)の 老少(らうせう)の兵(へい)を国(くに)え戻(もど)さんとする際少(ときせう)年 の者(もの)七八名達(たっ)て軍陣(ぐんぢん)に加(くは)はらんと 乞(こ)ふ西郷之(さいがうこれ)に諭(さと)して曰抑今般(いはくそもこんはん)出 国(こく)の刻我(ときわれ)に従(したが)ふ人々(ひと〱)は死(し)を究(きはめ)たる 壮士(そうし)なり御辺等(こへんら)は是より文(ふん)を学(まな)び 武(ふ)を講(こう)じ人(ひと)と成(な)る後(のち)は天晴(あっはれ) 皇国(みくに)の御為(ため)とも成べき行末(ゆくすえ) 頼(たのみ)ある者(もの)どもなれば帰国(きこく)のうへ 文武(ぶ)を勉強(べんきゃう)なし忠孝(ちうかう)の道(みち) 惰(おこた)ることなかれと涙(なみた)とともによく〱 説諭(せっとく)なしけるとぞ